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素描〈映画「あん」〉

朝。部屋を出、屋上に一服する気怠そうな中年男。無愛想な導入部だ。冒頭の無意味な映像の連続が、後でみな意味のある事に気づかされる、そういう仕掛けになっている。

彼は千太郎。刑務所を出所後どら焼屋店長に。生地は焼けるが、餡は業務用。味自慢というわけじゃない。雇われ店長で借金もある。客は学校帰りの女子校生。千太郎は彼らにからかわれながら、旨くもないどら焼を焼いている。桜が満開だった。老女が来た。私、ここで働けないかしら。お断りすると、吉井徳江です。いきなり名乗るのだ。どうぞと包みを置いて行ってしまった。粒餡だ。味見して驚いた。こんな餡、一朝一夕で作れる代物じゃない。あの人、ひょっとして凄い名人じゃないのか。千太郎は一から教わる事にした。やがて徳江の餡は評判になり、行列が出来るほどに。

徳江はハンセン病患者だった。オーナーが来た。悪い噂が広まったらどうするの。辞めてもらいなさい。意に介しない千太郎。季節が巡り彼の店は客がさっぱり来なくなった。今日はもういいです。千太郎が言うと徳江は翌日から来なくなった。数日して徳江から手紙が来た。縮れた文字で一生懸命つづってある。

「何も悪い事をしていなくとも、世間の無理解に押しつぶされてしまうことはあります。そんなことも店長さん、貴方に伝えるべきでした。

徳江に逢いに行った。彼女は施設にはいなかった。肺炎で呆気なく逝ってしまっていたのだ。ハンセン病患者には墓がない。木を植え墓の代わりにするのだ。桜が好きだった徳江。以来桜の下でどら焼を売る千太郎だった。監督河瀬直美

丁寧に作られた映画、特筆ものは何と言っても徳江役の樹木希林だ。天才的である。彼女は徳江を心清らかで天使のように可愛らしい、無邪気な女性として演じた。桜を見上げてはしゃぐ彼女が痛々しいほどに美しいのである。名優を本気にさせてしまうと恐ろしい。