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チェーホフ、作家像の現在

(左・浦雅春チェーホフ岩波新書、右・松下裕「チェーホフ・ユモレスカ」新潮文庫

まだ、だらだらと忙しい日々がつづいている。しかし、いま書いておかないと忘れてしまうだろうから、あと少しで読みおえる浦雅春さんの「チェーホフ」の感想を記録しておく。

チェーホフをはじめて読んだのは、高校のころだったとおもう。「犬を連れた奥さん」「可愛い女」を手はじめに、「退屈な話」「六号病室」「僧正」なんかを手当たりしだい濫読した。

むろん、世間知らずなガキに、チェーホフの世界がもっている、苦みのきいた大人の味などわかるわけがなかった。

絶望の詩人。

人間性がもっている負の深淵をチラリ、チラリとのぞかせながら、「まあ、こんなものではありませんか? あなたもこういう閉ざされた国の一員ではありませんか」

とばかり、作家はシニカルな笑いの向こうへ遠ざかっていく。つかまりそうでつかまらない、本心のよくわからない人物。決して尻尾はつかまらない。彼がそういうふうに書いているからである。

彼を読んでいると、この世の現実にたしかにふれているというほろ苦い、あるいは口が曲がってしまうような苦みを感じて、それが大人の味だと思い込む。

わたしのチェーホフ体験とは、その程度だったろう。

先日取り上げた佐々木基一さんの「私のチェーホフ」も、そういったチェーホフ解釈の延長上に存在している書物( ´ー`)

絶望の詩人が演じて見せる芸というのがあり、芥川龍之介太宰治を筆頭に、わが国の文学者に、ある時期、多大な影響をあたえている。

ところが、そういうこれまでのチェーホフ解釈は、21世紀に入るころから、その像をしだいに変えてきている。

その先鞭をつけたのは、1930年生まれのロシア文学者松下裕さんの仕事ではないかと、わたしはおもっている。

チェーホフは、金をかせぐためやたらと書きなぐったユーモア小説の作家として出発したのはよく知られている。そして、それらの評価はいたって低かった。

ところが松下さんは「チェーホフ・ユモレスカ」(単行本で3巻、文庫で2巻)を刊行し、初期作品の見直しを、読者にせまった。

わたしは松下さんの本はもってはいるけれど、まだ腰を据えて読むにいたっていない。

浦さんの「チェーホフ」が、さきになってしまった。

《多くの研究者は、チェーホフは軽佻浮薄なボードビルから後期の本格的なドラマへと成長をとげた、と言いたがる。ところが話は逆で、チェーホフはボードビルを切り捨てるどころか、むしろボードビル的人物を深化させていったのである。小説家としてのチェーホフがユーモアという周辺的ジャンルから出発して独自な小説世界を構築したとすれば、芝居においても彼はボードビルをてこに新しい演劇を生み出したのである。》(本書114ページ)

暗い顔をした絶望の詩人ではなく、もっとフレキシブルな、多様な顔をもっているチェーホフを見直すことで、われわれ自身を見直そうではないか・・・という機運が、こうしてひろがっていく。

そりゃたまには深刻な顔だってするさ。だけど、つぎの数瞬、彼は笑いころげている。運命のいたずらというか、悪意というか・・・そういった抵抗できない大きな相手だって、笑いのめすことができるじゃないか。

《・・・ほら雪がふっています。

どんな意味があります?》(「三人姉妹」より)

この部分だけ抜き出して読めば、彼は「人生なんて、なんの意味もない。下らないたわごとだ」と主張したいようにみえる。

ところが、つぎの一瞬、別な登場人物がこのセリフを混ぜっ返し、笑いのめす。

こういった世界観、人生観を、彼はどこから手に入れたのか?

浦雅春さんは、その最大の理由を、彼のサハリンへの旅に見出している。これは卓見といっていいだろう。

「なぜチェーホフは、大して意味のない無謀なサハリンへ旅立ったのか」

これはチェーホフを悩ませているアポリアであった。

この当時、ドキュメンタリー文学だとか、ルポルタージュという表現の手法はまだ生まれてはいなかった。

《生きたものの肉体という肉体は

灰になって散り失せた。

そして永遠の物体は彼らを石に、

水に、雲に変えた。

だが彼らの魂はことごとく

一つに溶けあった。

全世界共通の魂――それはわたしだ

……わたしだ》(「かもめ」より)

大学の教授だとか、著名な医師が、とうとうと自分の意見を人前で開陳したとしよう。

ところが、つぎの場面では、違う人物が、この意見を別角度から突き崩し、人びとを笑いの渦に引き込んでしまう。

ゴーゴリドストエフスキーも、そうして、この世の表裏や、多様性や、相対性を巧みに表現してきた。

そしてチェーホフチェーホフのやり方を、長大な旅を通じて徐々に発見していったのである。

浦雅春さんの論証は、とても具体的で、説得力を発揮している。目から鱗といってもいいすぎではない、素晴らしい書物である。

本書はチェーホフを通じて、ロシア文学の豊饒さを、あらためて取り出してみせてくれたものである。良書に巡り会い、わたしはいま、読書人(本を読む人)のよろこびに、深くふかくひたっている。